27 2 / 2012
"RT @iosafe21 江戸時代は「粋」の文化。代表的な着物の模様は縦縞でした。縦縞は交わりません。どこまでも平行線。男女の仲は交わらない。相手は相手、自分は自分。そのことわかって惚れあうから、相手の事無理やり束縛もしない。そういうのを「粋」と言ったのでしょうね"
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江戸時代の寛永15年(1638)頃からオランダ人の手によってインド東岸のサントメより平戸に輸入された縦縞(たてじま)の綿織物は当時の日本では出来なかった80~120番手のかなり細くて長い糸を使って縦縞が織られていました。それは、出産地名を当て字して「桟留(さんとめ)」と呼ばれるようになり、オランダより当初は献上品として幕府要人へ配られたが、従来の着物柄にはなくて「粋(いき)」な柄ということで、大奥や上級武士に好まれるようになり、それが18世紀以降一般庶民に流行するようになりました。 人気のあるこの織物は、日本各地で模倣する試みが始まりました。高機(たかばた)という織機の導入で織ることは可能なのですが、再現するのに苦労したようです。尾州産地では明和(1764年~)年間に模倣した織物が出来るようになり、「桟留縞(さんとめじま)」という名でブランド化し、「尾張の国産品」として江戸など大都市へ販売しました。並行して、輸入も続けられていましたが、こちらは舶来品ということで「唐桟留(とうさんとめ)」とか、「唐桟(とうざん)」という名で販売されました。また、尾州産地では、葉栗郡及び中島郡の結城縞(綿と絹の混紡)・寛大寺縞、海部郡佐織村の佐織縞、経糸に輸入糸を使った和唐縞といった様々な縞織物が各地域で織られ明治維新以降も隆盛を極めました。 — 尾州産地 織物のあゆみ
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